『いの一番にこの川を見つけたのは
肥え太った鮭の群れであったろうか』
(小説「石狩川」から)


  当別の始まりについて、明治4年5月新政府から開拓の許可を得た東北は仙台藩分家の岩出山藩主伊達邦直家臣(43戸・161人)が、当別に入植したことが開拓の始まりで当時の開墾は「うっそうとした樹木や笹藪」の開墾で厳しい自然条件特に大雨ごとに氾濫する「石狩川と当別川」との過酷な戦いを強いられながらの開拓であった。
この当時の移住者の苦闘を描いた長編小説は当別町そのものの成立史であるともいわれている。 この作家本庄陸男を顕彰し、当別町開基100年記念事業の一環として「石狩川や開拓地を見下ろせる場所」として、生地にほど近い石狩川の堤防に昭和39年7月にこの文学碑を建立した。
(開基100年記念式典・昭和45年に全町挙げて盛大に挙行される)
 
  文学碑の造形について    
 
  • 制作
    山内 壮夫(新制作派協会)主に屋外彫刻を得意とする。
  • 碑文
    高見 順(人民文庫時代の友人)
  • 主材
    茨城産花崗岩(御影石)高さ約7m(2丈2尺)

  • 北海道文学に打ち立てた柱、苦闘する伊達一族が当別の地に建てた安住の柱 --- を象徴。
  • 柱頭
    不屈な力を現す。
  • 柱の支え小壁
    武家屋敷の一隅を現す。
  • 前面の荒い石畳と囲炉裏
    開拓当時の屋敷を暗示。

昭和39年7月23日に除幕式を行い、以後毎年7月23日の命日に当別町観光協会で献花式を実施しています。

  お問合せ先 当別町役場経済部商工課観光係 TEL0133-23-2330  
 
 
 
  小説「石狩川」の著者
彼の生誕の場所・当別町ビトエ15線3号には「生誕の碑」がある。 昭和53年11月建立。(当別町観光協会にて建立)明治38年に当別村に生まれ、小学校3年生まで在住し、大正2年に北見地方の渚滑村(現在の滝の上町)に転居、学業を終えるや渚滑村役場に奉職しまもなく小学校代用教員となりまします。
昭和5年「失業体験記」プロレタリア文学評論を書き、当別に開拓の鍬を入れました。仙台「岩出山藩主」の苦闘を描いた大作「石狩川」は昭和14年に発表しました。

1905(明治38年)
2月20日当別村字太美ビトエ番外地(当時の住所名)にて、父本庄一興(カズオキ)、母ハヤの6男として出生。優秀な成績で当時の太美小学校に3年生まで通い,家業は農業、明治には荒物小売りも営んでいました。
  • 北見に転居(一家破産し北見へ)9歳の時
  • 樺太にも一時在住
  • 上京し青山師範学校(当時)17歳
  • 教員をしながら小説を書き始める。

プロレタリア文学系に属し、彼の晩年は、病と貧困と思想的弾圧の最悪の生活状態の中から生まれた大作「石狩川」はその続編を予定していたのだが、ついにそれを書くことができずに終わった。とも記されている。文壇の親友「伊藤整」による彼の人柄は「静かなもの言いの人で考え方が清潔であり、ユ−モアもあり実に好ましい人であった」と記す。

1939(昭和14年 35歳)
「石狩川」を昭和14年5月に発表し、一躍文壇に登場し活躍を期待された作家でありながら,病のため2ヶ月後の7月23日、午前8時55分東京都杉並区和田本町の自宅で逝去される。
お問合せ先 当別町役場経済部商工課観光係 TEL0133-23-2330
   
       
   伊達記念館は当別開拓の祖、伊達邦直公にゆかりのある衣服や古文書のほか、当時の生活を伝える書画、生活用具などが展示してある記念館であります。

 伊達邸別館は、明治13年に建築されたもので、名士来村の際の宿泊や諸会議のための建物です。昭和55年に町文化財として指定されました。邦直公のほか2体の人形が配置されています。この両館は、当別開拓の歴史資料が一堂に収集され、開拓史を学ぶ施設となっています。伊達記念館、伊達邸別館いずれも昭和57年11月1日開館。

 
     
 
お問い合わせ先 伊達記念館・伊達邸別館 TEL0133-22-3735
 
   
 
北海道記念保護樹木
(昭和48年3月30日指定)

この木は、樹齢350年以上と推定されるイチイです。


 当別町史によると、明治4年(1871)当別移住に先立ち仙台支藩岩出山藩の踏査隊が到達したおり、この樹下に露営したといわれている。また、最初の入植地シップから当別までの5里7丁を伐り開いたときの終点でもあり、伊達邦直が視察した折り、この樹下に祝宴をはり労をねぎらったゆかりの樹でもあります。

 昔、当別川に大洪水がありアイヌ人が多数溺死したとき、このイチイに舟をつないだ一人の女人だけが難を免れたとも伝えられている。

 
いち‐い (一位)
イチイ科の常緑高木。各地に広く生える。高さ二〇メートル、直径〇・八メートルに達する。樹皮は赤褐色を帯び、浅く裂けめがはいる。葉は長さ二センチメートル内外の線形で密生し、横枝では左右に開いて二列に並ぶ。雌雄異株。春、葉腋に花が咲く。雄花は淡黄色の小さな楕円形の花序となり、雌花は緑色で単生し、実は熟すと赤くなる多肉質の仮穂皮でおおわれ、これは甘くて食べられる。材は淡赤褐色で建築、家具、彫刻材とする。
お問い合わせ先 伊達記念館・伊達邸別館 TEL0133-22-3735
 
   
北海道記念保護樹木
(昭和48年3月30日指定)

この木は、樹齢1,300年以上と推定されるイチイです。


 大正3年に付近一帯が火事におそわれ周囲の樹木はすべて焼失しましたが、この木だけは一枝も焦げなかったといわれており神木として敬愛されています。
  イチイは、別名オンコとも呼ばれ庭園樹や生垣用として広く親しまれています。
 
お問い合わせ先 伊達記念館・伊達邸別館 TEL0133-22-3735
     

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 道では、昭和60年の国際森林年を記念して広く道民の方がレクリェ−ション・スポ−ツ・教育・文化などの活動を通じて、森林にふれ自然とともに生きる心を培うことを基本的な考えとしまして「道民の森」を構想したものです。
 この地は、当別町、月形町にまたがる道有林約11,400haに及ぶ広大な区域であることからこれらを有効に活用していくため、これらのエリア内に施設整備ゾ−ン・森の整備ゾ−ン・森林整備ゾ−ンの3つのタイプに分類し、森の整備ゾ−ンは、施設整備ゾ−ンの周辺部にあって手に触れたり、体験を通じて自然を実感できる活動として「森に集う」「森に学ぶ」「森に遊ぶ」の3つのタイプを満喫できる森の整備をすることとしています。
 森林ゾ−ンは、施設整備、森の整備の各ゾ−ン以外の区域で北方林業の実証の場と位置付ける。各ゾ−ンの、特徴や活動のイメ−ジをふまえて神居尻地区、牧場南地区、青ダム地区、一番川地区、月形地区と5つの地区を活動の拠点として設定されています。
お問い合わせ先  (財)北海道森林整備公社
道民の森管理事務所  TEL0133-22-3911
石狩支庁 道民の森ホームページ

北海道森林整備公社 道民の森ホームページ
     
 
1.スウェ−デンヒルズ建設に至る背景
 
  昭和45年7月「第3期北海道総合計画」により、石狩湾新港の建設と後背地域の開発が設定されましたが、後背地域に立地する諸企業の従業員約3万人の住宅の確保が、大きな課題とされていました。
スウェ−デンヒルズ開発のデベロッパ−である北洋交易(株)のト−モクグル−プはこのような背景から銭函丘陵地から当別の高岡台地に至る広い範囲にわたる現地調査を行い現在地、獅子内地区の丘陵地特有の自然地形と豊かな森林に着目、まちづくりコンセプトを実現するたるめ「当別ゆったりタウン構想」を樹立、石狩湾新港後背人口収容機能を果たす特色ある住宅団地形成をめざすに至ったものです。
 
2.スウェーデンヒルズのはじまり
 
  その後、スウェ−デンヒルズ構想そのものの発祥となったのは、昭和53年に都倉栄二元スウェ−デン大使(作曲家都倉俊一の父)が隣接のゴルフ場(グリ−ンヒルCC)にこられた際、開口一番「ストックホルムの郊外に非常に似ている」との感想をもたれスウェ−デンから帰任する際、スウェ−デン国王から託された日本とスウェ−デンの国際交流の橋渡しの足かがりの要請から本地区にスウェ−デンの交流拠点を建設してはとの提唱からはじまったものです。
 
3.スウェーデンヒルズ建設計画
 
  面積    150ha
計画人口  2,000人(平成12年7月1日現在:男208人、女225人、191世帯)
区画数   678区画
 
4.スウェーデンヒルズの主な特色
 
  (1) 自然景観を尊重するため基本的には、道路部分の造成は行うが宅地面については自然地形を利用し、極力切り盛り等の造成は最小限度にとどめる。宅地内の自然木を尊重し保全する。
(2)地区内幹線以外については、通り抜けを排除するため、各街区内道路は行き止まりとしている。(クルドサック手法…街区道路末端に車両回転広場を配置)
(3)電柱等は、地下埋設ケ−ブルとし無柱化を図り道路景観を配慮している。
(4)宅地規模は、ゆとりある面積を確保することから中央工区は平均240坪、東工区は150坪としている。
(5)街並み景観を考慮することから建築協定を結び、景観保全をめざしている。
 
4.スウェ−デン交流センタ−施設
 
   

     
お問い合わせ先 スウェーデン交流センター TEL 0133-26-2360